過去、現在、そして未来へ
Story of JOYO

相談役・機械製造部
⻆田 鬨生
機械製造部
村田  廣

“社員想い”の家族的経営

大手製鋼所の認定工場に

弊社の歴史は、1964年、姫路市八家に⻆田豊(現会長)が工具商社「⻆田商店」を創業したところから始まる。製鋼所に勤めていた豊は、29歳で昔からの夢だった起業をかなえた。創業当初は工具販売を主に行っていたが、1965年には今の弊社の母体となる城洋鉄工所を設立。名の由来は、1年前に生まれた長男の城治(現社長)の「城」と、太平洋の「洋」の字にちなんでいる。1967年に大手企業の協力工場の認定を得てからは、産業機械の部品加工や造船部品製造装置の保全などを手がけ、加工技術を磨いた。


昭和43年(1968年)有限会社城洋鉄工所

社員は家族。社長は「おやっさん」

相談役を務める⻆田鬨生は、当時の社風をこう語る。「社員数はまだ7、8人で、家族的な雰囲気でした。3時の休憩になると皆で近所のうどん屋に食べにいったりして(笑)」。


鬨生の後に入社した村田廣によると、「フォークリフトもなかったから、加工材料の搬入に苦労した。皆で転がしながら運んだ時代」であったという。

豊は工場の2階に住居を構え、社員を実の家族のように扱った。呼び名も、「社長」ではなく「おやっさん」。「2階から『はよ、昼飯食べにこい!』と声がかかるんです。ある時は活車海老なんかもご馳走になってね」と村田は述懐する。豊の求心力のもと、社員は伸びやかに技量を磨き、高度成長期の追い風を受けて、業績は順調に拡大していった。


自分よりも社員の生活を優先

好調な業績で得た利益を、豊は惜しみなく社員に還元した。春は花見、夏はバーベキューや貸切船での魚釣りに、皆で興じた。社員旅行の行き先は、北海道から沖縄まで日本全国に及び、時にはハワイやタイも訪れた。旅行時に小遣いが支給されたこともあった。

人に好かれ、人を大切にする。そんな豊の性格を、鬨生はこのように表現する。「会社外でもPTAやら自治会やら、何かしらの役をいつも担っていました。やっていないのは婦人会くらい(笑)。これは人徳でしょうね」。

自分よりも社員の生活安定を優先させ、1970年に社宅を建築。社員が10数人を超えた時、1972年に姫路市白浜町に新たな工場と事務所を建てた。豊が自宅を建てたのは、社員が自宅を建てるのを見届けてからだった。


昭和47年(1972年)新工場、事務所を建設
一覧へ戻る
PageTop