過去、現在、そして未来へ
Story of JOYO

相談役・機械製造部
⻆田 鬨生
機械製造部
村田  廣

組織化への道のり

リストラという苦渋の決断

順調に成長を続けていた弊社に転機が訪れたのは、1985年のことだった。急激な円高のあおりを受けて輸出量が減り、受注が激減した。利益をすべて社員に還元し、内部留保もなかった弊社は、人員削減に踏み切らざるを得ず、3人が社を去った。何よりも“社員想い”を旨とする豊にとっては、苦渋の決断だった。

幼い頃から城洋の社風のなかで育ち、当時大学生だった息子の城治は、父の経営に敬意と共感を抱きつつも、「しっかりとした組織体制を築かないと、環境変化やリスクに対応できない」ことを痛感する。


⻆田城治が城洋に入社

現社長の城治が弊社に入社したのは、1987年のことだった。社内を観察してまわった城治は、他社では真似できない高い技術力を持ちながら、その優位性を皆が理解していないことに気づいた。だから、難加工も安値で引き受けてしまう。「もっと高く評価してくれるところに売り込めるのでは?」。そう考えた城治は、大手重工メーカーなどに営業をかけていった。反応は上々。だが現場の職人は、豊の仕事なら受けるが、城治の言うことは聞いてくれない。当時は売上の大半を1社のお客様が占めていた。そこに風穴を開けるべく始めた新規開拓だが、豊がもともと取引を始めたそのお客様への愛着はひとしおで、「お客さんがあかんようになったら、城洋も心中する」とまで言う。豊の固い決意、そして豊と古参社員たちの絆は崩せず、城治は当面、豊の方針を汲みながら営業を展開していくことになった。


⻆田城治(現社長)

社内改革、そして親子の軋轢

専務として組織体制の構築に取り組んでいた城治は、次々と壁にぶち当たる。当時の社内には、「内部留保」はおろか「生産管理」や「品質保証」の概念もない。生産工程計画表を作成しても、見向きもせずに各自がやりたいように仕事をする。豊からは「宇宙人と話しとるみたいや」と言われ、経営に対する見解の相違から親子の間で言い争いを繰り返していた。

そんな日々の一方で、城治は取引先の様々な事業部・関係会社に積極的に売り込みをかけていた。以前に複数の大手メーカーから自社技術を高く評価された経験が、「うちの技術力なら必ず評価されるはず」という確信にも似た希望を裏づけていた。


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